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自分たちに都合の悪い人間を
「スパイの手先」と呼ぶ
SENKI派(自称・ブント)を
反戦の友と呼べますか?



2001年11月24日   小林義也







たびかさなる暴力を居直りながら反戦集会に参入するSENKI派


 ブントを自称するSENKI派(主宰者は荒岱介)は、新宿のトーク居酒屋「ロフトプラスワン」で3度に渡る暴行を繰り返してきました。これに関連して私は、SENKI派批判の文章を公表してきました。私に対する正当な批判が出来ないがゆえに、彼らは私を「スパイの手先」と呼ぶに至っています。
 9月11日、アメリカで起きた悲惨なテロ。アメリカがそれに対してアフガニスタンへの報復戦争を準備し、小泉政権がそれに追随しようとしている。そんな状況下の9月24日、「テロにも報復戦争にも反対! 市民緊急行動」が代々木公園で行われました。これにSENKI派が参加するということを私は聞きました。ロフトプラスワンで何度も暴力行為を繰り返して、一切謝罪せずに居直り続けているSENKI派。自分に都合の悪い発言を暴力で抑えつけようとする人々が反戦を叫んでも、とても心に響くものにはなり得ません。そのような気持ちを「暴力を居直るSENKI派(自称・ブント)の参加は反戦の叫びを嘘にする」(http://www.nurs.or.jp/~izumi/senki/antiwar/010924.html)というビラにして、私は集会場前でまいたのです。
 これに対してSENKI派のサイト(http://www.bund.org/)に、「9/24集会でのブントストーカー小林義也のビラに反論する」(http://www.bund.org/opinion/loft7.htm)という高倉典膳による文章が、9月27日アップロードされました。ロフトプラスワンでの被害者である佐藤悟志氏が、実は先に暴行を振るっていたなどという嘘が、再び繰り返されています。これについては、97年11月26日に発表された「襲撃の事実をねじ曲げる『ブント』の宣伝に反論します」(http://www.t3.rim.or.jp/~punsuka/hanron.html)で、すでに詳細に反論されています。佐藤氏の側から手を出した事実はありません。


「スパイの手先」なるレッテルはあまりにも無理なこじつけだ


 高倉君によるSENKI派からの反論には、新たな嘘が付け加えられています。私が「スパイの手先」だったというのです。その部分を引用しましょう。
 「彼は現闘団の時に、権力のスパイとして三里塚闘争を幕引きさせるために暗躍していた菅沢昭平(当時反対同盟事務局長)の担当者であり、闘争を売り渡す菅沢のスパイ行為を暴き闘争を守ろうとした他のメンバーに対して、逆に菅沢に同調し、論破されたあげく現闘団から姿を消したという経歴をもつと聞く。
 彼の三里塚での夢は、菅沢が公団―千葉県警のスパイであることが明るみに出て事務局長を辞任し、無惨にもうち砕かれたのだが、それをスパイを暴いたことが問題だったとしてブントを逆恨みしているのだ」
 そして文章の最後で、「小林こそファシストとスパイの手先ではないか」と断じています。この中で事実と言えば、私が菅沢昌平の担当だったいうことくらいです。それを精一杯膨らませて、私をスパイの手先としているわけですが、これはずいぶん無理のあるこじつけです。
 SENKI派が盗聴という方法を用いることによって、菅沢が空港公団や千葉県警と密通していることを暴いたのは、89年の暮れのことです。その内容が発表されたのは、SENKI派の当時の機関紙『戦旗』653号(1989年12月5日号)です。私はすでに88年の4月にSENKI派を離れており、現闘団にはいませんでした。この動きに反対も同調もしようがありません。引用した内容はまったくつじつまの合わない作り話であり、私がスパイの手先であるなどは何の根拠もない話です。
 ところで、菅沢のフルネームは「菅沢昌平」ですが、高倉君の文章では「菅沢昭平」と誤記されています。菅沢のスパイ行為への怒りがあるならば、その名前を間違えるなどということがあり得るでしょうか? ここには底知れぬ悪意が秘められているのです。
 中央指導部や他のメンバーの意見に反して、現闘団当時の私が関わりを強めようとしていたのは、堀越昭平氏や石井武氏です。堀越氏は、SENKI派のメンバーから懇願されて「大地共有化運動」の代表になっていました。しかし、83年の反対同盟分裂の際にSENKI派は、中核派との内ゲバを回避するという名目で「大地共有化運動」を取り下げ、反対同盟に対してその終結を訴えるに至っています。
 そのような経緯から、堀越氏はSENKI派への不信感をたびたび表明するようになっていました。中央指導部や他のメンバーは、SENKI派に批判的である堀越氏との関係を強化する必要などないという意見でした。理由はどうあれ堀越氏への不義理を働いたのは我々であり、関係を修復する必要があると考え、私は彼との関係を強めるように努力したのです。自分はSENKI派の集会などには行けないと言いながら婦人を参加させてくれたり、実力闘争でSENKI派に大量逮捕者が出た時に奔走してくれたりと、堀越氏は反SENKIの姿勢をしだいに和らげてくれました。
 私と堀越氏との関係をおとしめるために高倉君は、スパイ菅沢の名前に堀越氏の名前である「昭平」を忍ばせたのでしょう。スパイ行為そのものへの怒りなどはなく、自分たちに都合の悪い人間へのレッテルとして「スパイ」という言葉をもてあそんでいるのは、ここからも明らかです。
 SENKI派から「スパイの手先」というレッテルを貼られたのは、私だけではありません。「ロフトプラスワン襲撃を許さない共同声明」(http://www.t3.rim.or.jp/~punsuka/)の賛同人のひとりである李英和氏も、『SENKI』第921号(1997年10月25日号)に掲載された「7・8ロフトプラスワンの幕開け」(http://www.t3.rim.or.jp/~punsuka/makuake.html)において、「韓国安企部(韓国版CIA)の手先」と決めつけられています。これは塩見孝也氏の見解として紹介されたものです。しかし、このあまりの根拠のない決めつけぶりを共同声明側から指摘された後も、SENKI派はなんら謝罪も訂正もせず、そのままをホームページ上に掲載しています。ですからこれは、SENKI派そのものの見解であると受け止めるべきでしょう。李氏は関西大学の助教授で、在日外国人の参政権を求める運動(「在日党」)や、北朝鮮の民主化を掲げた運動(「RENK」)を続けている方です。李氏をスパイの手先と呼ぶのは、このような運動への敵対と見られてもしかたがないでしょう。
 根拠なく相手をスパイ呼ばわりするのは、SENKI派が初めてではありません。中核派と革マル派の内ゲバも、連合赤軍のリンチ殺人事件も、自分たちに都合の悪い人間をスパイと見なすことから始まっています。「パラダイム・チェンジ」を唱え、共産主義をやめたと言い、わざわざ「市民行動」などという幟を掲げて集会に参加してくるSENKI派ですが、左翼運動の最も悪しき病はしっかりと継承しているようです。
 スパイでない者をスパイ呼ばわりするSENKI派は一方で、作家の宮崎学が公安調査庁に中核派などの情報を流していたことが明らかになった後に、彼らの集会であるグラン・ワークショップに招き彼を擁護しています。本物のスパイに怒ることはせず、スパイという言葉をもてあそび、自分たちに都合の悪い人間を指弾することに、スパイという言葉を用いるSENKI派。彼らを、反戦の友と見ることはできるでしょうか?


過去の暴力を反省するなら非暴力の道を進むべきだ


 高倉君の文章には、次のような記述もあります。
「だいたい戦旗・共産同三里塚現闘団だった経歴を売りにする小林は、暴力をみとめないなどというが、私は彼の指導・指揮のもとで、三里塚で他党派と殴り合いをしたこともあるのだが、それについてはどう総括してくれるのか」
 これに該当する事件について、私はすでに「三里塚の大地に跪いて」(http://www.t3.rim.or.jp/~punsuka/sandou-kobayashi.html)で書いています。当時、「戦旗」と呼ばれるセクトはもうひとつありました。通称で戦旗西田派と呼ばれるその人々にSENKI派は暴行を加えたことがあったのです。ふたりに対して10数人で襲いかかったもので、殴り合いなどというものではなく一方的な暴行でした。
 この行動は、私が指導・指揮したものではありません。しかしながら、現闘団の中で指導的な位置にいた私自身が、先頭に立って暴行を振るっていたのは事実です。内ゲバを回避するという名目で中核派には妥協しながら、自分たちより小さな集団には暴行する。そのおかしさに気づかずに、中央指導部の指示に異議も唱えず従ってしまった私に、その責任が問われるのは当然のことです。
 そのような過ちを繰り返したくないと思うからこそ、私はSENKI派を離脱したのです。そして過ちを反省するからこそ、自分が被害者だったわけではないロフトプラスワン襲撃事件に関して発言を続けているのです。
 間違った指導をしたということについて、私は高倉君に詫びなければならないでしょう。しかし、その事件から14年、私が組織を去ってから12年も経つのに、「相手が小さな存在なら暴行もいとわない」という同じ価値観を、いまだに高倉君が持ち続けているのはどういうわけなのでしょう? 彼が成長していないということなのでしょうか? SENKI派そのものの価値観が変わらないからではないでしょうか? 過去の私の間違った指導を、高倉君が弾劾するのは当然の権利です。だが、その過ちを克服し正しい方向に進もうとするならば、SENKI派を離脱することが第一だと思います。
 高倉君は、次のようなことも書いています。
「また小林が団結小屋の中で酒を飲みながら議論をして、日常的に喧嘩をしていた事実などについてはどう考えるのか」
 私はのべ5年もの間、団結小屋で生活していたので、酒を飲んでいるうちに議論になったことはもちろんあります。それも無いようなら、むしろ不健全でしょう。そのうち1度だけ、仲間に失礼なことを言ってしまい、翌日ワインをプレゼントして謝ったことがありました。喧嘩と呼べるのはその1度くらいです。団結小屋内で私が暴力を振るったことは1度もありません。
 この文章で高倉君は97年7月16日における2度目の佐藤氏への暴行の実行犯だと名乗っています。新宿に、ミニコミ誌や自主出版物を多く扱う「模索舎」という書店があります。ここで出している「模索舎月報」97年10月号に、SENKI派の暴行を批判する模索舎スタッフによる文章が載りました。その翌号によれば、高倉君は模索舎に電話をし、文章を訂正するように要求したようです。その後、模索舎スタッフは高倉君の言っていることが事実と異なっていることを知り、訂正要求には従いませんでした。
 その電話の際に高倉君は、自分は暴行のメンバーではないと語っています。どちらかが嘘なのでしょう。彼の顔を知っている私は、当日の現場にはいなかったので彼が暴行犯だったのかは確かめようがありません。もしかしたら彼は、組織の中で不利な立場に立たされていて、実行犯を名乗ることを強いられているのかも知れません。


暴行実行犯・長田君によるつじつまの合わない言い逃れ


 10月1日には、長田武による「集会は逆恨みを晴らす場じゃない! ブントストーカー小林義也に反論する」(http://www.bund.org/opinion/loft8.htm)がSENKI派のウェブ上にアップされました。2000年6月15日、ロフトプラスワンで3度目の佐藤氏への暴行がありましたが、彼はその実行犯のひとりであると語っています。長田君の顔を知る何人もがこれを目撃しているので、これは事実だと思われます。
 佐藤氏のまいたSENKI批判のビラの内容が、私のビラで紹介されていないことを長田君は指摘しています。言葉による批判に対して暴力が振るわれたことを問題にしているのであって、言葉の内容そのものを私は問うものではありません。私がそう名乗っているわけでもないのに、長田君には私が正義の味方と見えるようです。しかし、私がこの問題で問うているのは「言論の自由」に関してです。例えば、何らかのポルノ作品が発表されたことに対して作者に暴力が振るわれたとしても、私はそれに怒りの声を上げるでしょう。
 また、自分とは正反対の発言も認めるのが言論の自由です。8月7日、「新しい歴史教科書を作る会」の事務所が、彼らに反対する者たちによって放火されるという事件がありました。私は「新しい歴史教科書を作る会」の人たちの主張には反対ですが、この放火には怒りを覚えます。
 言葉に対して暴力が振るわれたということに関して、私は言葉の内容を問うものではありません。しかしながら、佐藤氏のビラの内容を隠す必要もありません。佐藤氏の「『ブント清算事業』を再開するに当たっての若干の言明」(http://www.tk3.speed.co.jp/wolves/0615.html)は、ウェブ上で見ることができます。確かにここには、彼らの解体や撲滅を主張する内容があり、彼らが怒りの気持ちを持つことは理解できます。彼らが言葉で反論したり抗議したりするのなら、私が問題にする理由はありません。私が問題にするのは、あくまでも暴力が振るわれたという事実に関してです。
 長田君は自分が振るった暴力について、言い逃れやごまかしを重ねています。しかし、佐藤氏の隣にいたG氏にメガネを壊された、それで佐藤氏を暴行したなどということが、はたしてありうるでしょうか? 長田君と一緒になって暴行を振るったSENKI派幹部の五味洋は、事件直後にインターネットのBBS「旧あかいしわーるど」(http://www.nurs.or.jp/~izumi/senki/old-akaishi/200006bbs.html)に書き込んでいます。佐藤氏があらわれる前にG氏と五味君は穏やかに語り合い、「もう97年のロフトプラスワン事件のことは手打ちにしたいね。僕の中ではもう終わっていることだ」とG氏は語ったと書かれていました(五味君はGというハンドルネームで書きこみ、その後自分で削除しました)。これはG氏にも確認しているので、事実です。
 そのG氏が、いきなり長田君のメガネを壊すなどということが、起こりうるでしょうか? 事実は「『ブント』による6.15の集団暴行に抗議し、その停止と謝罪を要求する! 」(http://www.t3.rim.or.jp/~punsuka/0615seimei.html)ですでに明らかにされています。
 佐藤氏のビラが、ロフトプラスワンのパンフレット「ルーフトップ」とともに店員によって配られると、その場にいたSENKIの幹部メンバー数人が佐藤氏に詰め寄り、殴る蹴るの暴行を加え始めました。それを見たG氏やロフトプラスワンのスタッフが、間に入って暴行をやめさせようとしましたが、SENKIメンバーは彼らにも暴行を加えました。SENKIメンバーに応戦して手を出した者もいましたが、暴力を振るう者に対してそれをやめさせるために手を出すことは、倫理的になんら責められることではありません。その時に、長田君のメガネが壊れることになったのは事実のようです。なお、G氏のメガネも壊されています。
 佐藤氏は、意識的に無抵抗を貫いていました。SENKIメンバーの暴力がやまないために、彼は防犯ブザーを鳴らしました。そして、長田君が「店外に出よう」と言ったのは、さんざん暴力を振るった後でした。
 要するに長田君は、当日起きたことを順序を入れ替えて書いているのです。97年7月16日の暴行に関して、彼らは佐藤氏が先に暴行を振るったというまったくの作り話を機関紙に掲載しました。そのようなやり口は、簡単に論破され人々の怒りを巻き起こすということを彼らは学習し、順序を入れ替えるという方法を取ったのでしょう。高倉君も同じことを書いているので、これは組織的に意思統一されたものと思われます。
 しかし、事実をまったく異なる物として描いていることには変わりはありません。長田君や五味君初めSENKIの幹部メンバーは、一方的に佐藤氏への暴行を働き、それを止めようとした者たちにも暴行を振るったというのが事実です。長田君は「面と向かって『解体』とか『撲滅』とか言う連中」と書き、その中にG氏も含まれるかのように言って、G氏への暴行をも正当化しています。しかしG氏が佐藤氏のビラに賛同していたわけではないことは、仲間である五味君に聞けば分かるはずのことです。ここからも、長田君が事実を書こうとしているのではないことははっきりしています。


聡明なる長田君の言葉はSENKIの不正義を告白した


 長田君は、こんな文章で最後を締めくくっています。
「私から言わせれば、小林の言っている事は、世界貿易センタービルの爆破テロも、ロフトでの喧嘩も、すべて串刺しにする誇大妄想そのものだ。6000名以上の人々が犠牲になったテロ行為と一緒くたに論じられる『暴力』など、そう滅多にあるものではない。こういう常識的な感覚すら、ブントストーカーの小林は喪失してしまっているのである」
 私のビラを読んでいただければ分かるように、SENKIの暴力と9・11テロを同一のものとして語ったりなどはしていません。なぜ長田君はこんなことを書いたのでしょうか? 9・11テロと並べれば、自分たちの暴行が小さなものと見え、免罪されると考えたからでしょう。しかし、大きな罪と並べて小さな罪が無になるのなら、9・11テロと並べれば、連合赤軍による粛清殺人も、新左翼内部で行われ続けてきた内ゲバも、あるいは、米兵による沖縄女性へのレイプも、ましてや政治家たちの汚職なども、その罪は無になってしまいます。
 これではまるで、SENKI派が正義を求めていないことを告白したようなものです。なぜ長田君はこんなことをしたのでしょう? 聡明な彼は、SENKI派を信用するなという、隠れたメッセージをここに秘めたのでしょうか?
 SENKI派は正義を求めて反戦運動に参入してくるのではありません。自分たちの勢力を拡大することだけが目的です。事実、ウェブ上でSENKI批判を展開している市民運動スタッフに対して、反戦運動の現場でそのことに難癖を付け、任務の遂行を妨げるということも起こしています。この件については、「旧あかいしわーるど」21ウェブサイト(http://www.nurs.or.jp/~izumi/senki/)を参照ください。心ある皆さんが、十分に彼らに警戒して行動されることを強く願います。



2001年11月24日   小林義也