ロフトプラスワン襲撃事件については、週刊誌SPA!の鈴木邦男氏の連載「夕刻のコペルニクス」で知ってはいました。「乱闘酒場」と呼ばれるような場所だから、その手のトラブルは付き物だ、くらいの感想しかありませんでした。ところがたまたまパソコン通信で「共同声明」に触れて詳細を読んでいくにつれ、ただのトラブルではないぞと思うようになりました。
佐藤悟志さんの言論を暴力で封殺したのは事実なのに、機関紙ではのらりくらりと言い逃れる。いっそのこと「反党分子佐藤を殲滅」とでも堂々と書けば潔いのですが(よくないか)、「知的共同体」を売り物にしている以上そうは出来ないのでしょう。「戦旗共産同」を「ブント」に改称し、マルクス・レーニン主義を捨て、エコロジーを掲げるソフト路線に変更しても、党派性からは逃れられないから都合の悪いことは認めようとはしないのです。これはひとりブントに限ったことではなく、他の党派も同様です。中核派など少なからず「誤爆」、つまり敵対党派と関係のない人間を間違って襲撃することをしているのですが、私の知る限りでは、在日朝鮮人を「誤爆」したときに謝罪文を機関紙に掲載したことが一回あっただけでした。
今回のロフトプラスワン襲撃事件は、党派の宿命的属性が暴力や欺瞞の形で噴出した事件だったと思います。私自身一党派の末席を汚した者としての反省と、「暴力はイカン」というシンプルな道徳観により、「共同声明」の賛同人になることを決めるに至りました。
少し自分自身のことを振り返ってみます。小学生の頃、新宿騒乱や安田講堂の闘いをテレビで観て、なにかとても楽しそうな「祭り」にみえました。自分が大学生になったら、この「祭り」に絶対参加しようと思っていました。ところが70年頃から、だんだん凄惨な爆弾テロや内ゲバが始まり、楽しい「祭り」はドストエフスキーの「悪霊」の世界へと変質していき、果ては連合赤軍事件に至ります。「祭り」は南軽井沢の雪の中で終わっていたのでした。
それでもなお、私が党派に加わったのは、60年安保、70年安保ときて、80年安保が必ず盛り上がるという「10年周期説」を自分で勝手に設定していたからです。党派に入ってみたものの、そこにあったのは70年安保の戦後処理としての内ゲバの嵐ばかりでした。にも関わらず続けられたのは、「10年周期説」を信じていたからかも知れません。まあ「続けられた」といっても三年足らずで逃亡しましたが。結局80年安保闘争は来ず、自動改定されただけでした。
その間にみたものは、党派の機関紙がいかに平気で嘘を書くことか。ある全国集会で演説も聴かないで参加者を数えたら、約一八〇〇人でした。しかし、後の機関紙の発表では七〇〇〇人になっていました。3倍4倍当り前なのです。また、ある内ゲバ事件について「人民は我が革命的部隊を歓呼の声で送った」などと誰も信じないようなことを平然と報じる始末。なお叛旗派だけは、動員数を正直に発表したところ、警察発表を下回ってしまったという笑い話がありますが。
そして75年にベトナム戦争が終結しました。あれほど熱心にベトナム反戦闘争を展開し、ベトナム人民と連帯せよとかなんとか言いながら、戦争終結後のベトナム難民について取り組んだ党派がどれだけあったことか。べ平連などさっさと解散してしまいました。「殺すな」というスローガンはハノイ政権に対しては訴えないのでしょうか。ベトナム反戦を唱え、しかし難民救援にも取り組んだサルトルを見習ってほしいものです。まあこれは右翼のアフガン難民救援運動にも言えることですが。 このことが表わしているのは、俗耳に分かり易い倫理を党派が利用しているだけということです。党派自身の倫理は世間と隔絶したところにあるのです。だから、「戦犯ヒロヒトを処刑せよ」との見出しのある同じ紙面に、「死刑反対」のスローガンがあっても、党派倫理としては矛盾しないのでしょう。これが彼等の「政治」なのです。
それでその「政治」に有効性があるかというと、それがまるでないのです。赤軍派の東京戦争・大阪戦争のように、自分達が交番を襲撃すればそれに呼応して人民が蜂起するだろう、なんて本気で考えていたのでしょうか。中核派の二重対峙・対カクマル戦の理論によれば、中核と革マルの戦闘が展開するにつれ、革命勢力と反革命勢力が両者に集約されていき、やがて内乱・内戦・蜂起に至るというものですが、ただ両者が消耗しただけでした。そんな構想(妄想?)よりも、捜査撹乱のために地下鉄にサリンを撒いたオウムの方がよほど目的にリアリティがあるというものです。
そして今後は彼等はどうなってゆくのでしょうか。バチカン市国のような「聖地」を作ってあげて、そこで勝手に政権運営でもさせてあげればよいのではないでしょうか。
最後に。佐藤悟志さんはコワモテかと思っていたら、案外好人物でした。
でも青狼会政権が出来たらちょっとヤダなあ・・・。